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Posted by だてBLOG運営事務局 at

2010年07月04日

土木遺産 野蒜築港⑤

観光といえば

 やはり 食事も重要ですね

  こちらは 今回昼食をいただきました「望洋荘」さんのランチです



  うに!!!

   今が旬!!

  うに~  甘くておいしい!!

 それから 地産地消 !

 食材は 一部のお魚ちゃんを除いて

  地元食材!

  


サラダにも 贅沢に魚介!
ドレッシングがおいしかった!



たけのこも地場産

  ちなみに・・・
  中国の留学生が「このわかめ乾燥わかめじゃない!」って

 味の違いがわかる「留学生」も満足の

  ランチタイムでした

 

無言で食べ始め

もしかしたら・・男性諸君には量が少なめ?

 女性にとっては 満足感◎


  


2010年07月04日

土木遺産 野蒜築港④


  このエリアに「野蒜港」が建設されて

  大型船の乗り入れが可能になっていたら・・・


   宮城・岩手・山形・福島の未来は 大きく違ったものだったかもしれません

  海外貿易港「野蒜」から

  「北上運河」を利用して 岩手県へつながり
  「東名運河」で塩釜港・仙台へ
  「貞山運河」で福島県

  陸路では 同時期に 国道45号線の整備がスタートして
  山形県へつながる 交通網整備実施


 外国とのつながりを考え 国内整備を行った明治政府

  もし・・・大久保利通が暗殺されていなかったら・・・・

  もし・・・台風がなかったら・・

  もし・・・工期の順番が違ったら

  もし・・・もし・・・もし・・・と


 そして  もしも 坂本龍馬も暗殺されていなかったら

  日本の海運業は 違っていたのかもしれません
   
  
























 この海の先に アメリカ・イギリスがあり世界につながっているのだと・・

 暗礁に乗り上げた 工事を 引き継ぐ有志たちが

 宮城県内にいたのなら・・・・・・

 この 石碑が もっと 誇らしく見えたかもしれません

























鳴瀬川河口





  


2010年07月04日

土木遺産 野蒜築港③

 
 こちらが 今回ガイドをしてくれた

 野蒜築港ファンくらぶ 松川清子さん と 「祐神丸」 船長 大友さん


  野蒜築港のことが「大好き」って

  体からにじみ出ている 松川さん

  野蒜築港資料室にいつも?いるので 会いにきて~と
  言ってました

 

























   船長 大友さん

  いつもは「漁師さん」です

  この日の午前中はあ「スズキ」を捕ってきたそうです



  


2010年07月04日

土木遺産 野蒜築港②


  さて・・・

  こちらは 北上運河

  現役の「運河」です


   野蒜築港の際に「石巻港」とつながる「水路」として

  整備され 昭和初期には 石などを積んだ船なども
  ここを利用していたようです

  
























  現在は 漁船が利用しているようです



























 「北上運河」と「野蒜築港跡」などで

 観光客誘致ができないか?というのが

  今回の「テーマ」です

 
























  学生の皆さんは 色々なことを熱心に話してました




  これは「野ばら」です

    写真では「しろ」に写ってるかもしれませんが・・・・


   ふちの辺りから 「ピンク」の 「野ばら」でした

  船頭さんが 野ばらで「ピンク」は珍しいので

  舟を近づけて見せてくれました
  


2010年07月04日

土木遺産 野蒜築港①

  2010年7月3日

  宮城大学院生の方々宮城大学宮原育子教授らと

  宮城県内にある「土木遺産めぐり」を して来ました

  私などは・・
  「野蒜」ときくと・・

    「海水浴」「元旦の朝日」・・・そして 「海鮮」  と いうぐらい

  矢本で ブルーインパルスですかね~


  
  そんな 野蒜では

   今から130年前にとても大きな「国家プロジェクト」が
   行われていたのだそうです


   明治維新の立役者でもある「大久保利通」が

   「海運」「水産業」「貿易」は国民生活に欠かせないとして

  
  近代国家日本をつくるため 港湾整備をスタートする

  その「第1歩」が なんと!!「野蒜」だったと・・・・・・
   


























  ここは 野蒜築港跡 「北上運河」に近い「下の橋」
  この橋で「旧市街地」と「市街地跡」を結んでいたそうです


  このレンガ積みの手法は「イギリス積み」という
  強固なものだっそうです


  

























  橋げたは「3本」


  幅は広いのですが・・・


   明治時代なら・・馬と牛と人  ぐらいが 通るものだと思うので

  こんなに 橋幅が必要ではないかと思うですが


    自動車社会も見越していたのでしょうか?
   






  後ろにチラッと見えるのが  現在の 「トラック」です


  こうみても・・・橋幅があるのが わかりますか?